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上妙典 八幡神社

【いわれ】
八幡神社内に現存最古の棟板によれば、宝永六年(一七〇九)八幡宮造営が、篠田彦八郎宗儀と村中諸檀方が行い番匠、則ち大工は、石川勘左ェ門の時の当主である。

篠田彦八郎宗儀とは、篠田重左ェ門の時の当主で、徳川六代将軍 家宜の時代になった直後である。妙好寺と同じく神社自体も篠田重左ェ門家の社が後年この土地の神社になっていったものと思われる。

棟板の表書きに見られる様に御題目を中心として日蓮宗の御本尊が書かれています。勿論これは、妙好寺に隣接した神社でなく妙好寺と一体の社であった事を示している。明治維新の廃仏毀釈、神仏分離政策によって管理が別になったものであり、妙好寺の文書中、八幡神社御神体である僧形八幡大菩薩(僧侶の姿の為、御袈裟や御衣を召されている)は、妙好寺什物に記されている。

八幡奉謝(おびしゃ)も記録の残っているものでは、安永九年(一七八〇)庚子正月二十日の妙好寺第一五世目賢上人の書かれた御曼荼羅を掲げて、数軒の家が年番として順番に毎年 一月二十日《おびしゃ》を行って来た。

平成十一年(一九九九)まで当番制でしたが、現在は自治会が行うようになりました。

【みどころ】
本殿は方二メートル程の小さな祠で、周囲の壁面に施された彫刻は価値の高いものであります。また、昭和三年九月(平成元年十一月修復)に、当村 大工 宍倉寅吉、宍倉徳太郎両氏によって制作された重厚で荘厳な御神輿は拝殿奥に格護されている。

地名の由来など
戦国時代末期、小田原の北条氏へ塩年貢を収めた行徳七浜の一。
永禄7年(1564)第二次国府台合戦の戦功により篠田雅楽助清久恩賞として河原の地を賜る。翌年河原の地を分割、日蓮宗妙栄山妙好寺を建立、法華経から妙典と名付ける。
江戸時代行徳領妙典村。江戸時代中期、上下妙典村に分かれる。
現在は、妙典1~2丁目。

下妙典 春日神社

【由来・いわれ】
古い記録は安政三年(一八五六年)の当地を襲った大津波で流失し創建は不明です。名主藤左ェ門が奈良の春日神社に詣で御分霊を勧請したと伝える。

【歳時・みどころ】
秋の祭礼
祭礼は三年に一度十月に本祭りとして行われております。春日神社には関東一と言われる雄雌一対の獅子頭があり、大祭の日に若者達がこれを担ぎ街中を威勢良く練り歩きます。獅子は古くより悪霊を払うと伝えられ、春日神社の守り神となっております。

・境内の燈籠に寛文十年(一六七〇)の銘あります。
・御神燈文化四年(一八〇七)卯十二月吉日銘あります。
・手水石天保十己亥年(一八三九)九月吉日銘あります。
・力石 三十五〆目余 年月の記載なし。
・本殿の彫刻は美術的価値あります。

地名の由来など
戦国時代末期、小田原の北条氏へ塩年貢を収めた行徳七浜の一。
永禄7年(1564)第二次国府台合戦の戦功により篠田雅楽助清久恩賞として河原の地を賜る。翌年河原の地を分割、日蓮宗妙栄山妙好寺を建立、法華経から妙典と名付ける。
江戸時代行徳領妙典村。江戸時代中期、上下妙典村に分かれる。
現在は、妙典3丁目。

河原 春日神社

【御祭神】
天児屋根命(あめのこやねのみこと)奈良の春日大社の御祭神として有名です。

【由緒】
大永七年創建(西暦一五二七年)。本社はもと行徳町大字河原五八番地西側鎮座のところ、江戸川放水路工事のために、大正三年九月二日現在地に移転、鎮座。

【境内神社】
三峯社、金比羅社

【祭日】
十月二十日、一月二十日

【住所】
市川市河原六-二〇

地名の由来など
戦国時代末期、小田原の北条氏へ塩年貢を収めた行徳七浜の一。
江戸時代行徳領河原村。
永禄7年(1564)第二次国府台合戦の戦功により篠田雅楽助清久恩賞として河原の地を賜る。翌年河原の地を分割、その一方を妙典と名付ける。
現在は、河原、妙典1~2丁目・下新宿・大和田3~5丁目の一部に分かれる。

下新宿 稲荷神社

【由来】
当神社は京都伏見稲荷大社の御分社の一つとして下新宿の里の鎮守社として寛永十二年(一六三五年)創建と伝えられています。
明治三十年十月本殿は再築され、平成九年五月には拝殿の修復を行っております。
御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)にて「生命の祖神」であるとともに、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の守護神とし、地域の発展と共に信仰を集め、今日にいたっております。

神社名  稲荷神社

御祭神  宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

境内地  五八八平方メートル

本殿拝殿 四一、四三平方メートル

歳時   二月 二の午祭

     十月 例大祭(豊穣祭)

境内地  水神社・稲荷社

【歳時】
三年に一度の五ヶ町神輿渡御は古来よりの神事にのっとり船橋大神宮宮司の先導にて神明社より、わが稲荷神社へ早朝の渡御の儀式は行徳の歴史の深さを示します。荘厳で素晴らしい神事は、多くの人々に感銘を与えます。

地名の由来など  
江戸時代行徳領下新宿村。
現在は、下新宿、本塩・大洲2丁目・富浜の一部に分かれる。
菅野の白幡天神社周辺は字中ノ割といい、かって新宿(あらしゅく)という聚落があった。「あらしゅく」は八幡から宮久保・曽谷・大野の台地へ抜ける足がかりの地の宿、本行徳から八幡へ抜ける足がかりの地が下新宿。本業徳村をでたところに新たに宿ができたから新宿であり、菅野の「あらしゅく」と区別するために「下新宿」としたと考えられる。

本行徳 神明社

【歳時・みどころ】
本社は、伊勢内宮(三重県)の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請したことに始まると伝わります。また当初の所在地は、江戸川対岸の中州(江戸川区篠崎辺り)の地であった可能性もあります(『江戸名所図会』)。

文化七年(一八一〇年)に編纂された『葛飾誌略』には、「中州に在る時は小祠也。寛永十二乙亥大社に造立。」とあり、江戸川の中州に本社が所在していた時代には小さく、寛永十二年(一六三五年)に「大社」として造立されたことを伝えます。他にもその過程で行徳地区の十五ヵ村から寄進があったことや、当地あたりに居住していた徳のある山伏をかつて「行徳」と呼び、いつの頃からか地名になったともあります。

現在、この本社を中心に、三年に一度大祭が挙行されています(かつては毎年挙行)。神輿渡御の行事が行われ、大神輿が町内を練廻ります。勇壮な揉み方に特色があり、その継承も試みられています。また、大祭は五ヶ町祭りと呼び、当地(本行徳)の五つの集落がかかわっています。

祭りの開始については、「元文二丁・巳年享保元申年とも田中三左衛門催しについて、祭礼に始めて屋台を出す。町内も此の時四丁に分る。新田とも屋台五つ、新宿客祭りとして屋台以上六つ也。」と記され、十八世紀前半に祭りに屋台が出されたことを伝えます(『葛飾誌略』)。祭りの開始年次は、はっきりしませんが、十八世紀前半に当地(本行徳)が四つにわかれ、新田(現在の本塩)や新宿(現在の下新宿)も屋台を出したようです。

本行徳 八幡神社

御祭神   誉田別命(ほんだわけのみこと/ほむたわけのみこと)。第十五代応神天皇の名。

祭日    十月十五日

由緒・沿革 創立年代不詳。三丁目鎮守。明治まで別当自性院。

境内摂社  水神神社、八雲神社、道祖神社

史蹟    天満天神の碑

      手水石

      保存樹木イチョウ(市川市保存樹林協定十七号及び十八号)

富士塚について
秀麗清き富士山を神として信仰する宗教がある。
富士塚は土を高く盛り頂上に至るまで登山路を作り自然石と溶岩を富士登山道になぞらえて配置し、一合目二合目に当たる場所には自然石を配したミニチュア富士で頂上には石造りの社をおき富士浅間大神を祀る。

本行徳 神明神社

【由来・いわれ】
創建年代不詳
豊受大神(食物を司る神)
伊勢神宮の外宮の祭神
四丁目の鎮守として建立

【歳時・みどころ】
一月一日  初詣
十月十五日 五ヶ町大祭に神輿が渡御して留まる所

【境内摂社】
稲荷神社、水神社、三峰山

本塩 豊受神社

【由来・いわれ】
豊受の大神(伊弉諾尊 いざなぎのみこと)を奉祀

【歳時・みどころ】

 辻切り祭 一月十五日

 初午祭  二月

 宮薙祭  七月十五日・十六日

 祭禮   十月十五日・十六日

行徳五ヶ町の大祭
秋の豊作を祝って三年に一度十月に約五百キロもの重さがある立派な宮神輿が町内を巡行します。
神輿は本行徳神明神社で「御霊(みたま)入れ」の神事を行った後、下新宿稲荷神社へと渡ります。
稲荷神社を出ると、本行徳一丁目から順に、二丁目、三丁目、四丁目、そして本塩と渡され(渡御…とぎょ)、当神社で宮入れをした後、神明神社へと戻っていきます。
江戸時代行徳領本行徳村。享保元年(1716)本行徳より分かれ行徳新田と称す。
明治22年(1889)町村合併により行徳町大字本行徳字塩焼町、昭和53年(1978)の住居表示実施により市川市本塩。

・本塩は「もとしお」であり。「本行徳塩焼町」の略でもある。徳川家康の支配になってから最初に大規模な塩浜開発がされた地域。今でも地元の人は「しんでん」と呼ぶ。

行徳神輿ミュージアム

神輿の展示をはじめ、製作途中のパーツ、職人が使う道具など、普段はなかなか近くで見ることが出来ないものを展示しております。お祭り情報の発信、ビデオ上映、ここでしか手に入らない記念グッズの販売なども随時行っています。

行徳ふれあい伝承館

創業は室町時代末期と伝えられ、五百年もの間神輿制作に携わってきた『浅子神輿店』の貴重な資料とともに、行徳の神輿や祭り、製塩と舟運で栄えた行徳の歴史について展示しています。

関ケ島 胡籙神社

【由来・いわれ】
安土桃山時代 天正三年(一五七五年)に創立し、胡籙天神と称す。

【歳時・みどころ】
境内にある土俵は地元の相撲経験者達によって作られ、横綱栃錦(春日野元理事長)が行徳を訪れる度に相撲を取ったそうです。その名残からか現在でも毎年七月には、ちびっこ相撲大会が開催され、豆力士達の熱戦に歓声が上がります。
また三年に一度の秋の祭礼では、神輿渡御の前に、雄雌の獅子が町内を巡回します。

地名の由来など  
江戸時代行徳領関ケ島
現在は、関ケ島、末広1~2丁目・富浜3丁目・塩焼3丁目の一部に分かれる。
・中世、佐原市にある香取神宮の社領として「行徳の関」が置かれたため。

伊勢宿 豊受神社

【由来・いわれ】
神明社を豊受神社と改称(年代不明)
祭神「とようけのおおかみ」
イザナギノミコトの孫(伊勢神宮の外宮)
本殿建立 元禄年間(推定七年) 西暦一六九四年
前記より約百年後再び本殿造立 (西暦)一七九二年
境内鳥居造立 文政二年三月 (西暦)一八一九年

【歳時・みどころ】
初詣、初午祭、新嘗祭
三年に一度の本祭りには大小の神輿の渡御が行徳独特の揉み方で大変盛大に行われます。(十月)
(神輿への御魂移しは必見)

地名の由来など
江戸時代行徳領伊勢宿村。文化7年(1810)頃の家数40余戸。
町村合併により南行徳から分かれて行徳町大字伊勢宿。
現在は、伊勢宿、押切・末広1丁目・富浜2~3丁目の一部に分かれる。

・宿があり、伊勢神宮を勧請した豊受神社があるため。
・新開の地で早くから伊勢商人が移住したため

押切 稲荷神社

【由緒】
仰も当押切鎮守稲荷神社本殿の御尊体は、十一面観世音菩薩で約八百五十年前、建久巳年三月京都三條仏師の祖先とも云う、鎌足義政(又は義継)が一刀三礼の作で、大和国長谷寺の御尊体の御写とし、御丈一尺二寸五分、御身巾三寸五分の船形光背で蓮華座の立造の御尊像なり。

当押切の地に鎮守する迄の間、種々な経緯が有りから凡そ三百五拾有余年前に鎮座したが度々の津波等により本殿等が破壊し、御尊体は、葛飾の里鎌田邑の長寿院に預けられており、押切稲荷神社総代が御尊体が空虚なるのを日夜遺憾に思い、大正二年十一月四日長寿院に返還を申し入れし、鎌田村議の結果、大正二年十二月十九日早朝返還が相成り氏子総代一同御船にて御迎えし本殿へ無事安置し現在に至る。

地名の由来など
江戸時代行徳領押切村
現在は、押切、伊勢宿・行徳駅前1~3丁目・入船・日之出・福栄2丁目に一部に分かれる。
・江戸川が洪水のたびにこの地を押し切って流れを変えたため。
この地にあった江戸川河口を堤防で押し切って締め切り流れを変えたため
・対岸の蒲田村の住民が隣村の反対を押し切って移住したため

湊 湊水神宮

【祭礼の由来と行事の概要】
当祭礼は、古くから地元漁師の人々に豊漁、海難除けの守り神として崇められていたと伝えられています。

また、江戸川は生活水路でもあったので、船の安全運航、川遊びに興じる子どもたちの水難除けと水泳上達を祈願して、毎年六月末日の夜にお参りをしていたそうです。それがいつ頃からか定かではありませんが、祭礼の形態として年々盛大になり、地域の人々に親しまれてきました。

現在は、川が汚れ生活水路としての意味合いはなくなりましたが、水神宮はその後も水難除け、水泳上達、交通安全、受験生の合格祈願の神として崇められ、祭礼当日には数千名の参拝者があります。祭礼当日は、多くの露天商が出店し、祭り情緒を盛り上げます。夕方五時頃から徐々に参拝者が増えてゆき、ピークは六時半頃から八時半頃までで、神社付近は身動きできないほどの人手になります。

自治会、育成会、青年会、婦人会、南行徳交通安全協会、自治会組長が総力をあげて祭礼行事の進行と事故防止に力を合わせ楽しいお祭りにしています。これからも地域の人々が楽しめる伝統ある祭礼として、存続させていきたいと考えております。

なお、平成十六年より祭礼運営上の関係から祭礼日を六月の最終土曜日としました。

地名の由来など
江戸時代行徳領湊村。文化7年(1810年)頃の家数100余戸。
船が出会う海上の常設の場所を湊といい、船上で売買をする。故に今の俗海舶の湊口の名とす。陸上の村名は寛永年中(1624~43)寺社地方御改め御吟味の節に名付けられる。

湊新田 胡録神社

【祭礼の由来】
今からおよそ二百数十年前(江戸時代)房州上房の国、富津村から江戸へ大船に乗り商売をしていた男がおりました。ある日のこと、平穏だった海上の天候が突如として変わり、怒涛渦巻く大嵐となってしまいました。その時、男は一心に神様に救難をお祈りしました。やがてお祈りが功を奏したのか、大船は波にのまれそうになりながらも、ようやく行徳の浜辺にたどり着き男は命をとりとめました。その日が七月一四日でした。男はその後、救難の手助けをしてくれた娘と所帯を持ち毎年その日になると行徳の浜辺に来て花火を上げて救命のお礼をしたと言い伝えられています。

これが七月一四日の祭礼と花火大会(昭和五九年(一九八四)以降中止)の由来のようです。現在では、厄疫除、縁結び、家内安全祈願の神様として地域住民の氏神様として親しまれています。

平成二一年七月一四日 湊新田自治会

一、初詣 二、祭礼 三、七五三詣

地名の由来など 
江戸時代前期は行徳領湊村、元禄年中故有りて一村となり新湊村と称す。
明治22年(1889)町村合併により南行徳村大字湊新田。
現在は、湊新田、湊新田1~2丁目及び行徳駅前4丁目・福栄1~3丁目の一部に分かれる

香取・欠真間 香取神社

【由来・いわれ】
当神社、千葉県香取市にある下総国一の宮、香取神宮を勧請した社であり、祭神は経律主命 推定六百余年前に建立された。江戸時代から、欠真間・香取・湊新田・湊を合わせた、四カ村の鎮守様として崇められている神社である。

【歳時・みどころ】

神社縁日    毎月 十四日・晦日

神社御膳    年間 一月・五月・十月

元旦初詣       一月一日~三日

祈願祭        一月

節分祭        二月

交通安全祈願祭    五月(新小学一年生)

神社祭礼    三年に一度開催 十月

四カ村大祭      同時開催

七五三祝      十一月

御焚上       十二月大晦日

【四カ村大祭】
秋の豊作を祈って、三年に一度約四百キロ余の重さがある立派な神社神輿を巡行します。早朝より神社神輿を先頭に数十基の神輿が集合し神事(御霊入れ)を行い、当神社より各自治会に渡御され巡行する。神社神輿を当神社に宮入れを行い大祭を終了する。

地名の由来など 

欠真間
江戸時代、行徳領欠真間村。
文化七年(1810)頃の家数およそ230軒(現、相之川と香取含む)。
現在、欠真間1~2丁目及び香取1~2丁目・相之川1~4丁目・広尾1~2丁目・島尻・湊新田1~2丁目・福栄1丁目・同3~4丁目・南行徳1~2丁目の一部に分かれる。
・大洪水で真間(崖の意)が崩れて流されてできた土地。
・国府台合戦の難を逃れた真間の人々が移住して開拓した。
・江戸川の自然堤防のえぐれた崖状地。

香取
江戸時代、行徳領欠真間村。明治22年(1889)町村合併により南行徳村大字欠真間字香取、昭和31年(1956),市川市香取。
・かんどりさまと親しまれる香取神社に由来。砂原の本宮香取神宮を勧請。本宮は「かとり」と称す。

相之川 日枝神社

【由来・いわれ】
日枝神社は相之川の里の鎮守として万治二年(一六五九)九月十日創建と伝えられています。

社中に宝暦七年(一七五八)再建の棟札があり明治六年(一八七三)四月十一日、村社に列せられ明治十六年(一八八三)四月に改築され、最近では昭和五十六年(一九八一)改修、平成十九年(二〇〇七)拝殿改修、幣殿増築されました。

御祭神大山咋神は大國主命大年神と共に須佐之男命の子孫に当たる神で国土守護を主宰せられた。民族の発展と共に其の領ぎ給う御神徳であるから此乃南行徳を以て茫漠たる相之川を開拓の中心と定め直ちに産土奉斎を志し大山咋神を奉還いたしました。ご事蹟により農業守護、家内安全、商業繁栄、災厄消除、の神として近郷の信仰を集められ、初詣、七五三祝、初宮詣りに郷土の氏神として心のふる里として、年々参拝者が増加してまいりました。

地名の由来 相之川
江戸時代、行徳領欠真間村。嘉永2年(1849)、相之川分家数60~70軒、棒手売稼業50人余もあり、農業は勿論塩稼ぎいたし候者共これ無き様の成り行きに候、とある。渡し場船頭10人ほど。
明治22年(1889)町村合併により南行徳村大字欠真間字相之川。
・地名の由来は不明。「アヒカワ(相川)」は河川の合流点。相之川の対岸には篠崎川、蒲田川などの川口がある。

新井 熊野神社

【祭神・祭日】
イザナミノミコト、伊邪那美大神、伊弉冉尊、熊野夫須美大神、女神
一〇月一五日

【由緒・沿革】
創建、元和年中(一六一五頃)
境内摂社、素五社稲荷。本社は西向きにして人家に沿へり。年々一月一五日には五穀などを供へ以って例とせり。あるいは豊熟の年は神楽を奉ずる事あり。
本社は素五社稲荷と称せしが、寛永年中(一六二四~四三)熊野神社と改称し、文政五年(一八二二)拝殿を再建せしという。明治二五年(一八九二)大改修。昭和五七年(一九八二)社屋の老朽著しく氏子有志奉賛会により再建され現在に至る。
昭和五七年新築の際に「寛政十一年乙未一月吉日」(一七九九)の銘のある鳥居を取り除いたが、現在本殿裏にある弁財天の支柱として使われている。かつての村祭りには山車を牽き旅役者一座の興業を打った。元別当延命寺。

地名の由来 
江戸時代、行徳領新井村。
江戸時代初期、欠真間村の出村で新村(にひむら)。ニヒはニイと発音し、古代に新井_新居とありニヒヰと訓注される。
・新井寺(しんせいじ)開山能山和尚、観音菩薩に祈願、真水を掘り当てこの徳を祈念しての村名。

※新井川・・・
新井堀。新井自治会館敷地(新井一丁目11番5号)が河岸で行徳街道下が暗渠で水門があった。そこの船溜まりから江戸川まで全長約500m。「川幅五間(9m)ばかり。元禄の頃に掘り進められてきた内匠堀からの農業用水を江戸川に落とすために開削、新井村の年貢の津出しに利用。現在は一部道路と緑道公園(新井緑道)。